水と人権

初出:平野実晴「水と人権」『国際法学会エキスパート・コメント』No.2020-5(2020年)

 ※ 引用していただく際は、この参照先をご指定ください。エキスパート・コメントについてもご確認ください。


1. はじめに

 私たちは、1日に少なくとも3~5リットルの水を補給しなければ、生きてゆくことができません。水を使って顔や手そして体を洗い、トイレを流すことで衛生を保ちますし、炊事や洗濯もします。日本では、上下水道の普及によって安全な水をどのように得るか、廃水がきちんと処理されるか、心配をしなくてよくなりました。裏を返せば、私たちが水の恵みを意識することも稀になっています。
 世界に目を向けますと、8.44億人が未だに基本的な給水サービスさえ得ることができていません。基本的な衛生サービスに至っては、23億もの人々が未だに利用できない状況にあります(WHO/UNICEF JMP, 2017)。都市部に住む富裕層は安全な上下水道サービスを安く利用できますが、スラムや農村部の貧困地域では、必ずしも安全ではない水を水売り人や給水車から高額で購入する、あるいは女性や子供が遠くまで汲みに行く場合も少なくありません。また、衛生状態の悪いトイレ等を原因とした感染も課題となっています。その結果、学校教育や就労の機会にも影響が出て、格差は広がっていきます。
 水が健康を維持するために不可欠で、尊厳ある生活の基礎であることから、安全な飲用水と衛生へのアクセスは基本的な人権であると国際的に認識されるようになっています。そして、日本では、水道法が2018年12月6日に改正された際、水道施設運営権のあり方が主要な論点の一つとなり、水道運営における民間企業の関わり方について一般報道や世論を巻き込んで活発に議論されました。その中で、「水道事業は民営化になじまず、今般の水道法改正案は、すべての人が安全、低廉で安定的に水を使用し、衛生的な生活を営む権利を破壊しかねない」といった公式の意見が地方議会から出されています。
 このコメントでは、国際法において認められている「水に対する人権(the human right to water)」について、その法的根拠を確認し、内容を紹介したうえで、特に論争を呼ぶ水道事業運営への民間参入との関係について説明をします。

2. 水に対する人権の登場

 水に対する人権は、どの人権条約に規定されているのでしょうか。まず参照するべきは1948年の世界人権宣言を基礎に作られ、1966年に採択された社会権規約と自由権規約です。しかし、どの条文を読んでも「水」の文言は記されていません。この当時、水は国際的な問題として認識されておらず、これら文書を起草する過程において、議論の俎上にすら上らなかったようです。後に採択された差別の撤廃や平等を定めた条約には水へのアクセスに関わる規定も見られますが(例えば、女子差別撤廃条約第14条2項(h)、児童の権利条約第24条2項(c)、障害者権利条約第28条2項(a))、一般的な人権カタログの一つとして水に対する人権を認めたと根拠づけるのは難しそうです。
 このように、水に対する人権は明文規定を持たないため、その存在について議論が交わされてきました。水が人権の問題として国際人権法の実務家や研究者の間で広く取り上げられるようになったのは、世界各地で水道事業の反民営化デモが起こった2000年頃からです。特に、翌年に京都での世界水フォーラム開催を控え、社会権規約委員会が2002年に公表した「水への権利(the right to water)」に関する一般的意見15は大きな影響を持ちました。その後、人権理事会の要請を受け、国連人権高等弁務官事務所が報告書を2007年に公開しています。また、2008年以降は人権理事会によって水と衛生分野の人権について担当する個人資格の特別報告者(当初は独立専門家)が任命され、テーマ別の研究、国の訪問調査、優良事例の収集と紹介をしてきました *。
 諸国はこうした意見や報告書などを参考に国連の総会や人権理事会で議論を進め、「安全な飲用水に対する人権(the human right to safe drinking water)」の存在を確認するに至ります。初めて水と衛生に対する人権を独立の人権として明示的に確認した2010年の総会決議64/292は、122カ国の賛成で採択されたものの、日本を含む41カ国もの棄権がありました。その理由は、事前の調整が不十分なままの決議案提出であり、十分な合意が得られていない内容が含まれていたためです。同年の人権理事会決議15/9以降は、コンセンサスで決議が採択されていきます。2015年の総会決議70/169日本語訳)以降は、安全な飲用水に対する人権と、衛生に対する人権が、それぞれの固有の考慮の必要から別個の内容を持つ権利として分けられています。
 総会や人権理事会の諸決議では、水と衛生それぞれに対する人権は「相当な生活水準についての権利から派生し、そして到達し得る最高水準の身体的及び精神的健康に対する権利、並びに生命及び人間の尊厳に対する権利と分かち難く関連している」と、根拠となる権利が明示されています。こうした権利は、日本が締約国である社会権規約の第11条、第12条や自由権規約の第6条で定められていますので、日本も義務を負っていることになります。

  * 国連の特別報告者については、エキスパート・コメント No.2017-2(小坂田裕子)をご覧ください。

3. 水に対する人権の内容

 諸決議で示された定義によれば、水に対する人権は、「すべての者が、差別なしに、十分で、安全で、許容可能で、物理的にアクセス可能で、かつ負担可能な対価で、個人及び家庭で利用するための水にアクセスする権利」であり、衛生に対する人権は、「すべての者が、差別なしに、生活のあらゆる側面において、安全で、衛生的で、安心で、社会的及び文化的に受容可能で、またプライバシーを提供し尊厳を確保する衛生に対し、物理的に及び負担可能な対価でアクセスする権利」であるとされています。以下で、個別要素を掘り下げます(衛生に対する人権については、スペースの都合上、若干の言及に留めます)。
 保護の範囲は「個人及び家庭で利用するための水」です。飲用水はもちろんですが、相当な生活水準を満たすために必要な炊事や洗濯、浴用の水も含まれると考えてよさそうです。ただし、「十分」といえる水の量は、個人の健康状態や気候、職場環境などによっても変わりますし、水資源の状況や国の経済発展の程度による供給側の制約、文化的要因などによっても影響を受けます。日本でも、災害時に極端に利用できる水が不足する時には、個別のニーズにも配慮して水の適切な配分を行う必要が出てきます。
 水の質について、「安全」であるために微生物や化学物質、放射性物質などによって汚染されていないことに加え、色やにおいが「許容可能である」ことも求められます。ただし、飲用水の安全性やおいしさを過度に追及すると、処理のコストが上がり、延いては水道料金に跳ね返り、今度は後に見るように経済的理由から水を得られなくなってしまいかねません。飲用水の安全性について、WHOは『飲料水水質ガイドライン』(第4版)(日本語訳)で「人の成長段階に応じて感受性は異なるがそのことも含めて、一生涯を通じて飲み続けても、重大な健康リスクがもたらされないことを示すもの」であるとし、人々が容認できるリスクを基準とする考え方を採用しています。
 「物理的にアクセス可能」とは、水が家や学校、職場の中もしくは隣接地で安全に利用できる状態を意味しています。特に、障碍者や高齢者など、特別のニーズも考慮する必要があります。途上国で見られる不適当な衛生設備は、夜に女性が用を足すために外出することで危険が伴ったり、学校のトイレにプライバシーがなく生理中の女学生が欠席したりといった問題ともつながっています。
 対価の「負担可能性(affordability)」は、経済上アクセス可能であることを示す基準です。水を処理して各家庭に供給するには様々な費用がかかりますので、上下水道の利用料金によって回収されます。しかし、家族構成や健康状態によっては他より水利用が多い家庭もあり、所得も少なければ料金負担が家計を圧迫し、他の権利を実現する障害となりかねませんので、そうした場合は措置を講じる必要があります。特別報告者(Heller氏)は、料金不払いを理由とする給水停止措置について、世帯に支払能力があるにもかかわらず支払わないことが示された場合に限定されるべきであると報告書で指摘しています。

4. 水道の民営化は人権に反するか?

 水に対する人権が国際法上の人権として取り上げられた当初、そもそも水道事業の民営化は人権の観点から容認しうるか議論を呼びました。結論から言えば、国際人権法は事業の経営形態について中立であり、公的な規制によって実効的に個人の飲用水へのアクセス権が保障される限り、民間による給水サービスは認められます。2010年の人権理事会決議15/9では、国が「安全な飲用水・衛生サービス供給への非国家アクターの関与を選択できる」ことを認めています。とはいえ、水に対する人権の完全な実現を確保する第一義的な責任を負っているのは国であり、第三者への水道事業運営の委任によって国家は人権を確保する義務から免れるわけではありません。そのため、私企業が水道事業に参入する場合、国は技術的な面から運用を監督する必要があります。
 水道事業運営への民間参入が行われた場合は一層、水道料金体系をめぐる利害対立をどのように調整するかが課題となります。一般に、住民にとって料金は低いに越したことはありませんので、政治家が値下げを掲げて票集めを行うことがあります。他方で、民間事業者は利益を上げるために高い料金の設定を要求するかもしれません。そこで、誰が責任を持つか、どのように適切なバランスを確保するかが重要です。日本で水道料金は地方公共団体の議会で承認されますが、海外では政治部門からは切り離された独立の規制機関を設置し、料金決定の権限を与える制度を持つ国も多くあります。

5. おわりに―日本と水に対する人権

 あまり知られていませんが、日本は給水・衛生分野で最大のODA拠出国です(OECD, 2017)。日本の金銭的・人的貢献が世界でより評価されるためにも、人権ベースの考え方をより明確に反映させることが有益かもしれません(前任の特別報告者が日本を訪問した際の報告書日本語プレスリリースも参照)。
 日本の中でも、インフラの老朽化が課題となっており、人口減少や気候変動が進めば水の管理が大きな影響を受けると予測されています。2018年の改正で水道法の目的が基盤の強化であると改められましたが、その実現過程で、貧困層や障碍者、外国人といった特別のニーズがある人々、あるいは地域格差にも考慮を払う姿勢が一層問われていくと思われます。
 国際法としての水に対する人権が形成される過程で、反民営化の主張は強力な駆動力であったことは事実です。しかし、国際人権法が上下水道サービスの民間による供給や民営化を一概に禁止しているわけではありません。他方、日本で上下水道施設の運営に民間が参入した場合も、国(地方公共団体も含みます)の責任は残ります。そうした場合に、住民の権利を保護しつつ、民間にもフェアな制度や環境を整備していくことが求められます。